美味しい料理でゲストの皆様をおもてなししようというカップルが増えたのでしょう。
もともとウェディングパーティとはホストである新郎・新婦が友人を自宅に招いてご馳走でもてなすこと(日本の伝統ある結婚式は別ですが)だと思います。ですから僕の思うレストランウェディングとはお二人の代わりに料理人が料理を作り、お二人の代わりにサービスマンが料理をテーブルに運びサービスする、ということです。新郎・新婦、お二人のお抱えの料理人と給仕人、そして自宅の代わりのレストラン、というイメージです。
僕がシェフを勤めるレストランでもレストランウェディングをしています。もちろん、先に書いたように心がけています。しかし、残念なことがあります。お客様が料理を食べ終わろうが終わるまいが容赦なく次の料理が運ばれることです。制限時間と進行が決まっている以上仕方がないのですが、それでも、せめてテーブルごとに料理を進行させることは出来ないのか。この問題はオーナーの理解もあり条件付ではあるけれど実現することが出来そうです。
ウェディングパーティには初めてフランス料理を食べるという方もいらっしゃいます。初めて食べるものがまずかったら、もう二度とフランス料理が食べたいなんて思わなくなるでしょう。これは責任重大です。このパーティをきっかけに初めてフランス料理を食べるという方やおじいちゃん、おばあちゃんにもフランス料理を好きになってもらいたいと願いながら料理を作っています。
レストランである以上、宴会だからといって料理のレベルは落としたくない。そのために作り置きはせず、冷たいものは冷たく、熱いものは熱く、そして100人分一度に同じ質のものをつくる努力と工夫を絶えず考えています。
これが、今、僕が料理人として出来ることです。
“最高のレストランウェディングを・・・”目指してみようと思います。
レストランに来られたお客様をどうやって満足させるか、そして感動させるか、サービスをする者と料理を作る者が共に日々考え続けなければならないことです。
人の心理を“悟る”サービスマンと感性を研ぎ澄まし、技を“極める”料理人がいるレストランがあるとすればきっと、そのレストランは来るお客様に“魔法”をかけることが出来るでしょう。“感動させる”ことは良い意味でお客様の期待を裏切り、上回る、いわば“魔法”をかけるということでなないかと常々思っています。
きっといつか、魔法をかけるレストランを...僕の夢です。
芸術とは進化しないもの。
ピカソやゴッホの絵画を今観賞しても、ベートーベンやショパンの書いた楽譜を当時のまま演奏しても芸術です。それに対して料理はどうでしょう。古き偉大な料理人エスコフィエのレシピを今再現しても現代の人々の口には到底合わないでしょう。さまざまな一流の料理人の手によって時代の流れにあったレシピに書きかえられていく。
料理は進化しています。
料理とは商品。ということは料理人とは芸術家ではないのでは。しかし料理人の感性はある意味芸術家のそれに近いようにも思えます。絵画や彫刻などのようにその形をいつまでも残すことができない、消えてなくなる儚いもの、そういう点では演奏されたときの音楽に似ているのかも知れません。
感じること、そしてそれを表現すること、そういう意味では料理人も芸術家のようにありたいと思います。
そうは言い切れないと思います。アマチュアの料理好きの方々の中にはプロより美味しい一品を作れる方もいるでしょう。 でもそういう一品は大抵がたっぷりの時間と糸目をつけない材料費のおかげであることが多いとも思います。
プロとは制限ある時間と限られた材料費の中で日々何十人前、何百人前の料理を安定して生産できることであると思います。あるシェフが“料理に愛情なんて言っている奴はまだまだだ”と言っていました。
家庭の主婦たちは家族のために毎日一生懸命献立を考えて愛情を込めた料理をつくる。その姿はけなげで美しく、そうして出来た料理は多少見た目が悪くても凄く美味しい。料理を作る過程にどれだけ努力したかが評価されるからでしょう。それに、なんといっても料理に代金を支払わなくてもいい。
プロはというと当然、料理を提供してお客様から代金を頂いています。よって何時間かけて仕込みをしようが何時間献立つくりに悩もうが、いい食材を求めて朝早くから市場を走りまわろうが料理が美味しくなければ評価されない。プロとは結果が最も大事なのだと思う。
プロとして生きるには人生をかけ多少の犠牲も覚悟し大げさなことを言わせてもらうと命を削って修行し腕を磨くこと。
お客様にほんの少しの感動を与え“美味しい”の一言を聞くために...。