ある日、シェフソムリエの先輩から「ロアラブッシュでワイン会があるんだけどお前、行ってこいよ。俺の後輩がいるから言っといてやるよ。」と言われ、同期の仲間と2人でドキドキしながら行くことにしたのです。
そのワイン会は作り手の違うムルソーの飲み比べでした。当時のシェフ大渕氏によるスペシャルコースも提供されました。会費は2万円。今、考えるとお得な価格だと思うのですが当時、僕の月給は6万円。2万円は相当痛い出費です。
シェフソムリエによるワインの説明を必死に聞きながら、作り手まではとても覚えられそうにないムルソーという村の黄金色のワイン7種類を目の前にして、なぜこんなにも味が違うのだろう、とワインの面白さを実感しはじめていました。その時、一人の若いソムリエさんが僕に、「どのワインが一番好きですか?」と話しかけたのです。思わず僕は美味しいかどうかは分からないけれども一番印象に残った左から2番目のワインを指し「これです。」というので精一杯。当然、コメントなんて出来ませんでした。若いソムリエさんは一言「素晴らしいチョイスです。」と言ったのです。なんだか、その一言で嬉しくなってしまいました。
後日、ロアラブッシュから僕宛に小包が一つ届きました。びっくりして箱を開けると手紙と一緒に白ワインが1本入っていて、その手紙には“あなたがワイン会で一番気に入っていたワインを送ります。頑張ってください。相山”と一言。あの時の若いソムリエさんだということはすぐに分かりました。そして彼が先輩のシェフソムリエの後輩の方だということも。
そのワインの名は“MEURSAULT Clos de La Barre Domaine des Comte Lafon " 「ムルソー、 クロ・ド・ラ・バール、ドメーヌ・デ・コント・ラフォン」
もちろん、僕はそれからムルソー好きです。そして、相山さんは今、平塚で“ブラッスリー・H&M”をオープンして頑張っています。
それからも、いろいろな大先輩の方々とお会いしました。
当時西洋銀座ホテルの鎌田総料理長、アルポルトの片岡シェフ、アピシウスの当時の料理長高橋氏、世界一のソムリエ田崎氏など...。
その方々のお話は僕には全てが感動でした。
そして、念願の調理場へ...
つづく
*この記事は、僕が修行していた時代のことを書いています。
4畳半の部屋に3人ずつ押し込まれる寮生活、部屋には4歳児用の2段ベットのみ。ほとんど寮とレストランの往復のみの生活が始まりました。まさに料理人になるためにそのことだけに集中できる、いや集中せざるおえない環境。
憧れのフランス料理を目の前に心躍る日々が始まるはず...
とんでもありません。あまりにレベルの高いサーヴィスに僕はおろおろするばかり。怒鳴られ、殴られ、毎日自分が何をしているのかも分からないまま、朝から夜中までくたくたになるまで働きました。覚えることが山ほど、というか僕の知らないことが山ほどありました。なにせ、恥ずかしながら僕はフランス料理店で食事をしたことすらなかったのですから。
わけが分からず夢の中で働いていたような“春”があっという間に終わり、箱根で一番忙しい季節の“夏”がやってきました。
凄まじい忙しさです。連日、満席以上。帰りは2時過ぎ。休みはもちろん無し。先輩の仕事についていくのに僕は必死でした。
そんな中、ソムリエの先輩にワインを教えてもらいシェフ・ド・ラン(ギャルソンリーダー)の先輩にはチーズを教えてもらい、メートル(支配人)からはサーヴィスすることの素晴らしさを教えてもらいました。
箱根の“夏”が終わり紅葉がきれいな“秋”に季節が移り変わる頃、10人いた新人はすでに半分も残っていませんでした。倒れて病院行きになったもの、ノイローゼになったもの、そして夜逃げしたもの...
つづく
*この記事は、僕が修行していた時代のことを書いています。
全国から集まった料理人の卵達1000人以上。授業中、目の前で繰り広げられる本格的な料理技術の数々。田舎者の僕には刺激的でした。そして、夢を語り合えるよきライバル、よき友人も出来ました。夏には就職活動が始まり、僕は大阪の有名なレストラン、“ル・ポン・ド・シェル”に就職を希望し面接にも行きました。
そんな時、一人の先生の言葉で思いがけない成り行きに...
ある日、外部講師の授業で箱根のオーベルジュ・オーミラドーの勝又登シェフの講習があったのです。その時僕はオーミラドーというレストランの存在すら知りませんでした。勝又シェフの料理は僕にとって今まで見たこともないような斬新で繊細な料理に思えました。でも箱根は田舎です。
“やはり都会の一流レストランで働かなければ”
そう思っていました。講習が終わり勝又シェフが教室を出て行ったとき担任の先生に「お前、オーミラドーに行け。お前にはオーミラドーがあっとる。今すぐ勝又さん追っかけ!直談判するんや!あとの授業は俺が何とかしとく。」
“そんなん言われても...。”わけが分からず勝又シェフを追いかけオーミラドーで働きたいと直談判したのです。勝又シェフはしばらく僕を見て「明日、第二校舎で授業があるから3時に来なさい」そういい残して歩き出しました。“俺、何言ってるんだろ...。”
翌日、第二校舎で勝又シェフと話をし一度、箱根へレストランを見に行くことになりました。当然です。オーミラドーというレストランを知らなかったのですから。どうしても授業を休みたくなかったので大阪から箱根へ強行の日帰り見学。オーミラドーを見たとき驚きました。こんな田舎にこんな素晴らしいレストラン、いやオーベルジュがあるとは。オーベルジュとは宿泊施設のあるレストランのこと。帰りを心配せず時間を気にせずゆっくりと食事を楽しんでもらうために宿泊設備のあるオーベルジュという形態のレストランを作ったとのこと。しかも、日本で初めて。(ビストロという言葉も勝又シェフが日本に初めて持ち込んだのです)
勝又シェフの話は情熱がひしひし伝わり僕の心を動かしました。そして、もう一度改めて「勝又シェフの下で働かせてください。」そう頼みました。今度は本心でした。勝又シェフは「お前いい目してるな。」それだけ言って席を立ちました。
数日後、担任の先生に呼び出されて「よかったな。ほら、内定書。」そういって渡された封筒。
オーミラドーの内定通知書でした。
数ヵ月後、卒業式を向かえ僕のよきライバルたちも夢と希望と不安を抱えそれぞれに旅立ちました。
www.mirador.co.jp
つづく
*この記事は、僕が修行していた時代のことを書いています。