それは、箱根にある“オーベルジュ・オー・ミラドー”でした。
勝又登シェフが26年前に作った、日本最初のオーベルジュ。
エントランスのドアを開けると、
右側に美しく優雅な螺旋階段があり、
左側にある、金のドアノブを回すと広がる、
美食と癒しの空間。
その奥にある蹴りドアの向こうには、
戦場ともいえる厨房があり、
そこには、僕らの修行の場がありました。
僕たちはみんな、勝又シェフのことを敬意を込めて、
「ムッシュ」と呼び、神様のような存在でした。
時は経ち、あれから20年。
7月11日、オーミラドーで働いた歴代のスタッフ、OBが集まって、
ムッシュを囲む会が開催されました。
場所は青山のレストラン。
そうそうたる先輩方々から、今をときめく若手の後輩まで、
熱く心を燃やす有志たちが、
それぞれの“あの時”を思い出し、
それぞれの“これから”に希望を感じました。
昔と変わらず、エネルギッシュなムッシュとお会いして、
つらい思い出がほとんどですが、
その厳しさが、今の僕を支えているのは事実。
厳しさこそ、エネルギー。
“やるしかない”

○○銀座という、東京ならどこにでもあるような商店街のネーミング。
僕の住んでる町にも銀座の名のつく商店街があります。
大きな川があって、大きな橋があって、
そこから右斜めに入ると、その商店街があります。
その商店街の出口付近に、今時めずらしい「電話ボックス」が、
暗闇にふんわり浮き上がるように立っていました。
その電話ボックスを見て、僕は、
「そういえば、料理の世界に入ったばかりの見習いの時、
寮の近くの電話ボックスから父親に電話したことがあったなあ。」
と、夜遅く、暗闇の中、父親に電話したことを思い出しました。
まだ、携帯電話が無かった頃です。
「お父さん。もう、耐えられん。」
あまりの修行のつらさに弱音を吐いた時でした。
「いいよ、帰って来い。でも、二度と包丁を持つなよ。」
この言葉は僕の胸を突き刺し、僕は、逃げ出すことを躊躇しました。
料理人はやめたくない。子供の頃からの夢だから。
そして、数日後、シェフに呼ばれました。
僕の母からシェフ宛に手紙が届いたようです。
「智寛を、もっと厳しくしごいて下さい。」
シェフは、僕に言いました。
「小川。お前、ガルド・マンジェのシェフやれ。」
当時の僕には荷が重過ぎる責任で、つぶれそうでした。
ここからは逃げ出したいけど、料理人は続けたい。
そんな甘い考えでしたが、それを父は許しませんでした。
母は、僕を厳しく追い込みました。深い愛情を持って。
僕は、二度、血を吐いて倒れました。
両親の厳しさと愛情。
おかげで僕は一度も逃げ出すことなく、今でも料理人を続けています。
自分のお店も持ちました。
誰でも逃げ出したいときはあります。
その時、周りに誰がいるかで、その後の人生は大きく変わるんだ、
ということを、電話ボックスを見て思いました。
電話ボックスの灯りは、ほんのりと暗闇に浮かんでいました。