エル ブランシュのオープンが3月9日18:00に決定しました。
ご予約、お問い合わせは 03-5439-4338 まで。
オープン当初は6,300円と10,500円の2コースのみのご用意となります。
準備出来次第アラカルトを充実させていきますのでよろしくお願いいたします。
4人掛けのテーブル4つ、3人掛けのテーブル1つ、カウンター席4席の小さなレストランですが皆様に愛されるレストランを目指します。

内装がほぼ完成しました。
あとは天井にシャンデリアがつきます。
まだまだ、細かいところが出来てませんが、ここまでくると見えてきますね。
ワクワクします。

この鉄板で、僕は調理します。
エルブランシュ、最大の特徴は鉄板を使ってフランス料理を作ることです。
目の前は、カウンター席になっていて、シェフズテーブル的な感覚です。
ある日、突然その空き部屋に新しく住む人がきました。家主さんからはなんの連絡もありません。ここの家主さんは、マダムKと呼ばれている、日本語がかなり上手な60歳前後の女性でした。彼女の家に、何回か呼ばれて庭の手入れをさせられたこともありました。それも、僕達のいい暇つぶしになりました。
「こんにちは。今日からおせわになります。」
突然現れた新しい住民は明らかに日本人でした。
突然だったので、驚きましたが日本人だったので容易に話ができました。
彼はまだ20歳ですが、高校を卒業してすぐウィーンに渡り、ウィーンで1年ほど勉強し、そしてパリに来たそうです。彼はピアニストの卵でした。
大きな電子ピアノを抱えて現れた彼はまだ20歳ですが、かなりしっかりした口調で話す、まじめそうな子でした。
彼はこのパリで、有名な先生の下で勉強して、世界的に有名なパリの音楽学校(すごく長い名前の学校で、学校名は忘れました)に入るらしいです。
彼は日本から送ってもらったインスタント食品を食べていました。当たり前ですが、彼は料理が全く出来ません。若いせいかいつもお腹を空かしていました。そんな彼をみて、僕はせっかく料理人なんだから彼の食事も作ろうと思い、そのことを彼に言うと、彼は凄く喜んでくれました。今まで香港人のジャーナリストの食事を作ることもありましたが、彼女は仕事でいつもよるも遅く、外で済ませているようでした。
彼はいつもよく食べてくれました。3人分くらい食べます。こんなに食べてくれると作りがいがあります。将来有望なピアニストが勉強に集中できるように、僕らが食事を作って少しでも彼を支えられればという思いでした。
彼はカレーが大好きでした。
カレーを作ると彼は、5杯は食べました。ご飯を炊くのも一度では足りないので、炊き上がったら2回戦目です。最初に炊いたご飯が食べ終わる頃に、2回戦目が炊き上がります。そんな感じの食事でした。僕も26歳。若かったですから。
こうして、僕は食事をつくり、彼はピアノを弾く…。
パリでの生活は、それはそれで充実していきました。
つづく
*この記事は、僕の修行時代のことを書いています。
オープンまであと一ヶ月をきりました。



“一体どうなってんだ”
僕は確かに、OKの返事をもらってました。電車の中。その手紙を読み直しましたが、やはりOKの返事でした。
フランスでは、雇い入れの手紙をもらっていても、約束の日までに別の日本人を雇ってしまうという例は結構あるようでした。本当にいい加減なものです。
運がないなぁ、としょぼくれながらパリに着くと友人の家に再び転がり込みました。
そして、友人の日本人と香港人のジャーナリストの女性との3人の生活が始まったのです。3部屋あったのですが、僕と友人は一つの部屋を2人で使いました。お金がなかったので、少しでも節約しようと、大家さんに相談して格安で一部屋を使わせてもらいました。確か一ヶ月90フラン(約18,000円)だったと思います。まだ新しく綺麗なマンションでパリの中心地までもRER(高速地下鉄)にのって20分くらいでした。
香港の女性ジャーナリストはほとんど部屋にはいなく毎日夜遅くに帰ってきていました。仕事が忙しそうでした。同じアジア人なのに変ですが、共通の言葉はフランス語です。
すぐにこの生活には慣れましたが、毎日なにもやることがありません。失業中ですから。ただ、レストランへの手紙は書き続けていました。友人も同じく無職で次のレストランを探しているところです。
宛てもなくパリをぶらついたり、映画をみたり、美術館に行ったりと、一見優雅に見える生活ですが、内心ハラハラものでした。このまま無職が続けばお金がなくなってしまいます。貯金が底を突くまで、そう時間はかからなそうでした。
彼の友人の音楽家のたまごが近くのマンションに女性3人で住んでいました。彼女たちは、偶然日本人ばかり、このシェア型のマンションに入ったらしいです。
なんだか、こうして音楽家達と知り合うと、パリにいるんだなぁと実感してきました。パリは芸術の都ですからね。彼女達と知り合ってからは、よくシャンソンを聞きにいくようになりました。こうやって音楽にふれられたことも僕にはいい経験だったような気がします。日本にいたらこんな経験はできなかったでしょうから。
無職でやることがなくても、この時間を無駄にするのはもったいないですよね。
料理とは直接関係なくても、音楽に触れることもきっと自分を磨くことになるでしょう。
せっかくパリにいるのだから出来る限り芸術に触れるよう心がけました。
つづく
*この記事は、僕の修行時代のことを書いています。
初日は、長崎県漁連へ行き、施設の説明を受け、夜は長崎で捕れた美味しいお魚をご馳走になりました。これがまた、本当に美味しい!
そして翌日は、朝4時出発。もちろん、市場の見学です。
まだ真っ暗な中、市場に到着すると、漁港にはとびっきり新鮮な魚介がどんどん水揚げされています。
1月の早朝は、長崎といえど寒い!
こんな激寒のなかでも市場は活気に満ち溢れていました。
せりがはじまると、漁港をぎっしり埋め尽くしていた魚介類があれよあれよという間に競り落とされ、なくなっていきます。全く何を言っているのか分かりませんがこの熱気は寒さを吹き飛ばす勢いでした。
加工場ではおばさんたちが水揚げされた魚介を加工しています。こんな寒い中、水浸しでの作業です。見ているだけで凍えそうでした。
一度、ホテルに帰って朝食をとり、次は佐世保の市場へ。
佐世保の市場についた頃は10時をまわっていたのでせりは終わっていましたが、大量のイカが水揚げされていました。話によると毎日4,000箱ものイカが揚がるとのこと。
お昼は、またしても美味しいお魚のお刺身やお寿司をご馳走になりました。
たらふく頂きました。満足、満足...。
今回の訪問で、漁港の方々の熱い思いとまじめな取り組みに触れることができ、大変勉強になりました。漁港の皆さんは、僕たち料理人を一生懸命もてなしてくださいましたが、僕たちこそ漁港の皆さんに感謝しなければならいと思いました。
今後も僕は生産者と向き合って料理に取り組んでいきます。
今回、このような経験が出来たことも感謝します。ご一緒させていただきました料理長の方々、ありがとうございました。

