全国から集まった料理人の卵達1000人以上。授業中、目の前で繰り広げられる本格的な料理技術の数々。田舎者の僕には刺激的でした。そして、夢を語り合えるよきライバル、よき友人も出来ました。夏には就職活動が始まり、僕は大阪の有名なレストラン、“ル・ポン・ド・シェル”に就職を希望し面接にも行きました。
そんな時、一人の先生の言葉で思いがけない成り行きに...
ある日、外部講師の授業で箱根のオーベルジュ・オーミラドーの勝又登シェフの講習があったのです。その時僕はオーミラドーというレストランの存在すら知りませんでした。勝又シェフの料理は僕にとって今まで見たこともないような斬新で繊細な料理に思えました。でも箱根は田舎です。
“やはり都会の一流レストランで働かなければ”
そう思っていました。講習が終わり勝又シェフが教室を出て行ったとき担任の先生に「お前、オーミラドーに行け。お前にはオーミラドーがあっとる。今すぐ勝又さん追っかけ!直談判するんや!あとの授業は俺が何とかしとく。」
“そんなん言われても...。”わけが分からず勝又シェフを追いかけオーミラドーで働きたいと直談判したのです。勝又シェフはしばらく僕を見て「明日、第二校舎で授業があるから3時に来なさい」そういい残して歩き出しました。“俺、何言ってるんだろ...。”
翌日、第二校舎で勝又シェフと話をし一度、箱根へレストランを見に行くことになりました。当然です。オーミラドーというレストランを知らなかったのですから。どうしても授業を休みたくなかったので大阪から箱根へ強行の日帰り見学。オーミラドーを見たとき驚きました。こんな田舎にこんな素晴らしいレストラン、いやオーベルジュがあるとは。オーベルジュとは宿泊施設のあるレストランのこと。帰りを心配せず時間を気にせずゆっくりと食事を楽しんでもらうために宿泊設備のあるオーベルジュという形態のレストランを作ったとのこと。しかも、日本で初めて。(ビストロという言葉も勝又シェフが日本に初めて持ち込んだのです)
勝又シェフの話は情熱がひしひし伝わり僕の心を動かしました。そして、もう一度改めて「勝又シェフの下で働かせてください。」そう頼みました。今度は本心でした。勝又シェフは「お前いい目してるな。」それだけ言って席を立ちました。
数日後、担任の先生に呼び出されて「よかったな。ほら、内定書。」そういって渡された封筒。
オーミラドーの内定通知書でした。
数ヵ月後、卒業式を向かえ僕のよきライバルたちも夢と希望と不安を抱えそれぞれに旅立ちました。
www.mirador.co.jp
つづく
*この記事は、僕が修行していた時代のことを書いています。
その料理書は荒川西洋料理という西洋料理書だったのです。小さい頃から料理人になりたいと思っていた僕はその本をわけも分からず読みはじめました。フォン・ド・ヴォー?ソース・ベシャメル?当時の僕には聞いたこともない横文字ばかり。今までハンバーグやエビフライなどを出すいわゆる洋食屋さんになりたいと思っていた僕ですがその本を手にした時から本格的な西洋料理を勉強したいと強く思うようになったのです。
「そのためには田舎ではダメだ、都会の調理師学校に行って基礎を学びたい。」
もともと大学には行く気がなかったので進学校ではなく商業高校に進み、人気TV番組“料理天国”で料理を監修していた大阪の調理師学校に行きたいということを親に話しました。父は反対はしませんでした。でもマイホームを買ったばかりでローンを抱えての入学金や学費は大変だったのでしょう。父は仕事に行く前に朝4時からアルバイトをして入学金を貯めていたそうです。父は全くそのことを僕には言わず、何年も後に母から聞かされました。そんな父の苦労も僕は全く知らず希望と夢を背負って田舎を出ました。
当時18歳。
なぜ、和食の板前なのに西洋料理の本を持っていたのか父に尋ねたことがあります。
「若い頃、西洋料理を勉強したくて貯金を全てつぎ込んで買った。」
そう言いました。その時、父の若い頃の夢を少し託されたような気がしました。
つづく