~第74章 SUSI~ <僕の料理人の道>
別れ際にお礼をいうと、シェフは、
「そうか、そうか。それはよかった。」
ギヨーシェフが僕を見つめる目は、どこか悲しくも優しくも感じられました。
“返事を待ってる”
僕にはそんな風にも見えました。
“5年間の雇用契約。5年間ブルターニュに残る”
僕はまだ迷っていました。
あの時、ラ・ボールの美しい海岸を見たときは残ろうかと思いました。
...が、やはり迷っていました。
翌日...
僕はギヨーシェフと普通に挨拶をし、彼も何もなかったように振舞っていました。
まるでラ・ボールでの衝撃的な告白は夢だったかのように。
その日の夜、
ディディエが部屋にやってきました。
生ぬるいビールを2本持って。
そのうちの1本を僕に差し出し、
「シェフから聞いただろ?」
と、おもむろに話しかけてきました。
「えっ!」
僕が驚くと、彼はシェフからもっと前に話を聞いていたといいました。
当然です、こんな大事な話。
ディディエはもう5年近くもギヨーシェフの右腕として、
オーベルジュ・グランメゾンのシェフ・パティシエとして務めてきたのですから。
「どうするんだ、トモ?残るのか、ここに。
このことを知っているのは多分、俺とトモだけだよ。
シェフから最後まで見届けてくれと頼まれた。
俺はまだ残るよ。最後まで見届けれるかどうかはわからないけど。」
「ああ...。わからない。」
僕の返事はあいまいでした。
「そうか、慌てることないさ。ゆっくり考えればいいよ。
トモは自分のいいようにすればいいよ。」
「そうだね。」
“なぜ、僕は迷ってるんだろう...”
ディディエは話題を変え、
「そうだ、トモ、SUSIを作ってくれよ。日本のSUSIを!」
「いいけど。」
とは言ったものの、もちろん僕は寿司など握ったことはありません。
でも、父親が寿司職人だったこともあり、握っている姿は何度か見ていました。
“なんとかなる”
最後に残ったビールを2人で一気に飲み干し、
寿司をまかないで作ることをまず、シェフから許可をもらい、
来週中に、僕が寿司を握ることに決め、
お互いベットに向かいました。
次の日、早速シェフにこの話をすると、
ギヨーシェフは快くOKの返事をくれ、ネタの発注をディディエと計画しました。
準備が整い、僕がフランスで日本を代表して寿司を握る日がやってきました。
寿司酢は日本から送ってもらい、ネタはすべてブルターニュ産でそろえました。
ヒラメ、タイ、スズキ...
玉子も焼きました。
チューブの山葵を日本から送ってもらったのですが、
それを見た見習いの子が「これは何?」と
僕に尋ねたので、
「日本のグリーンマスタード」
と答えると、
彼は指の上に少し山葵を絞り出し、ペロッとなめました。
次の瞬間...
彼は鼻を押さえてのたうちまわりました。
当然ですが。
それを見てみんな山葵は勘弁、ということになったので
仕方なく、サビ抜きのSUSIを握り各皿に盛りました。
みんな、初めて見るSUSIを食い入るように見つめていました。
そして、みんなが席に着いたとき、
僕は驚く光景を目にしたのです。
お皿に盛られたSUSI、小皿に入れた醤油、脇には割り箸。
そして...。
ここはやはりフランスでした。
つづく
*この記事は、僕の修行時代のことを書いています。