~ 第45章 マリカ ~ <僕の料理人の道>
(*ジビエ=野生の狩猟鳥獣)
ランスブールが特にたくさん扱うジビエに鹿があります。柔らかく野性味のある鹿の背肉を骨付きのままローストして、オレンジとシナモンの香りをつけたソースをかけ、アルザス風のジャガイモのニョッキ「ブールスペッチェル」が付け合せてあります。
「鹿の背肉のロースト オレンジとシナモンの香るソース」
僕はこの料理が大好きでした。
ジビエ料理がメニューに載り始める頃にはアルザス地方は涼しさを通り越して寒くなってきて日も短くなり、外は早い時間に暗くなって少し寂しい感じもしますが調理場はいつも活気があり戦場のようです。そんな中、怒鳴り散らすシェフにもびくともせず、どんなに忙しくともマイペースで淡々と仕事をこなし、一人だけコックコートを着ず、私服に(しかもスカート)エプロンをしている60歳過ぎのおばさんがいます。
彼女の名は「マリカ」
彼女は19歳のときにこのレストランにお手伝いさんとして来たそうです。当時はまだ、このお店はシェフのお母さんの代で今のような高級レストランではなく、レストランの前を通るトラックの運転手相手の食堂でした。それから40年以上、彼女はこの店でずっと働いています。調理師の資格もありませんが、このレストランのオードブルとデザートを作っています。
彼女は、いつも朝早くから夜遅くまで働いています。僕が朝8時に調理場へ入ると、彼女はすでに鳩を30羽を捌き終わっています。そして、僕が仕事を終え夜中の1時過ぎに部屋へ戻る頃、彼女はデザートを最後のお客様に出し終えて調理場の掃除をしています。
マリカは口数も少なく無愛想で、使い古した愛用のナイフはプロ仕様ではなくその辺に売っていそうなものでした。そしてシェフが新しく買った最新のコンベクションオーブンも彼女は手も触れず、何十年も前の古いオーブンをずっと大事に使っています。彼女の使っているミキサーなんてガムテープで形を保っているようなものでした。
そんな彼女は朝、温めた牛乳を飲むのが好きでした。僕は毎日、じゃが芋のピューレに使う牛乳を少し多めに温めて、余った分をマリカのカップに注いでいました。それを彼女は当たり前のように受け取ります。無愛想ですが、人一倍働き者です。
そんな無愛想だけど働き者のマリカに僕は感心していました。
彼女はきっと何か事情があってシェフのお母さんに引き取られたのでしょう。マリカはシェフのお母さんのことを凄く感謝していました。
ただひたすらに40年間、恩に報いるために仕える…。
そんな彼女の姿勢に、僕は感心していたのです。
そして、「鹿の背肉のロースト オレンジとシナモンの香るソース」の付け合せ、「ブールスペッチェル」を僕は彼女から教わりました。
つづく
*この記事は、僕が修行していた時代のことを書いています。