~第29章 ボンクラージュ~ <僕の料理人の道>
いつものように朝、厨房に入り、いつもと変わらない仕込を始める。ただ、今日でこのレストラン最後の日。みんなといつものように挨拶をするがなんとなく僕は気合が入ります。
辞めることが決まってからシェフの横でストーブ前に立ち主に肉を焼いたりソースを仕込んだりするのが僕の仕事になっていました。オードブルのセクションとは違い営業が始まってからが勝負のポジション。一日多いときだと100人のお客様が来るこのレストランでのストーブ前はオードブルのセクションより正確でスピーディな仕事が要求されました。京都にいたときもストーブ前は経験していましたがお客様の数が違いました。そしてフランス人のシェフから食材の火入れ、ソースに対する考え方を間近で体感しながら学ぶことが出来ました。
僕はここで基本となるフランス人の考え方を学びました。このレストランは星なんて一つも付いていませんでしたが僕にとっては料理人にとしての大きな第一歩を踏み出す場となったことに違いません。今でもかけがえの無いレストランです。
仕事ももう終わりに近づき後片付けを始めた頃、いつもはアプランティがごみを捨てに行くのですがシェフから「トモ、悪いがゴミを捨ててきてくれ。」と頼まれました。もちろん、断る理由も無く「分かりました。」と返事をし、ごみをまとめ敷地内にあるごみ捨て場まで台車にごみを乗せ向かいました。厨房からごみ捨て場に行くにはプールサイドを通っていかなければなりませんでした。
プールサイドの横を通り過ぎようとしたときです。脇にある草むらからなにやらゴソゴソと音がしました。振り向くとその瞬間5人くらいの人が出てきて僕を捕まえ持ち上げたのです。
何がなんだか分からず僕はびっくりしました。そして体が宙に浮いているとき僕を持ち上げているのはシェフをはじめ一緒に働いていた料理人だということが白いコックコートを見て分かりました。
と、次の瞬間
“バッシャーン”
という水しぶきと共に僕はプールに放り投げられていました。
一度プールの底に沈んだあと水面から顔を出すと
「ボンクラージュ、トモ!」(頑張ってこいよ、トモ!)
とみんなの声が聞こえました。
シェフがプールから顔を出したまま唖然としている僕に手を差し伸べ引き上げました。水浸しのまま厨房に戻るとオーナーをはじめ全スタッフが僕を笑いながら迎えてくれました。
「これがフランス流よ。」
と、マダム・ポマレードが僕に言いました。
とりあえず着替えてきてみんなの待つ厨房に向かうと僕の送迎会を開いてくれるということでバーに向かいました。シャンパンで乾杯をした後は朝までみんなでおしゃべりをしたのです。僕はまだ、フランス語が堪能ではありませんでしたが少しは話せるようになっていたのでとても楽しい時間でした。
翌朝、寝不足でしたが清々しい気分で起きてここ“マス・ド・キュル・ブルス”を旅立ちました。駅までマダム・ポマレードが送ってくれました。この日はマス・ド・キュル・ブルスのレストランは定休日でした。
つづく
*この記事は、僕が修行していた時代のことを書いています。